明智の埋蔵金.....周山街道でひろった小判
京北の昔語りによりますと、明智の埋蔵金があるらしいです
京北の昔がたり(昭和61年11月20日初版) 京北町文化財を守る会 発行より
戦国の昔。各国の権力者は日本の覇者になろうとして、阿修羅の戦いをしていました。
明智光秀も、主人の織田信長を討って、息継ぐ間もなく、山崎で秀吉軍と戦いましたが、悲運にして破れ、近江の国で戦いの態勢を整えようとして退却中、山科の小栗栖で百姓の竹槍で殺されました。
安土城で留守をしていた弟、明智光春の処へ、天正十年(1582)6月13日、光秀の死んだ知らせがとどきました。
「これは大変だ。敵は必ず安土城奪還に来るだろう。早く坂本城へ引揚げよう」と、光春の軍は14日未明に安土を引揚げ、坂本城に無事集結することができました。そこへ、敵秀吉麾下の堀秀政軍が亀山城を陥れ、その勢いで既にこちら坂本城に向かってきているとの知らせが入りました。
そこで、光春は城内の武将を集めて
「明智の命運はここに尽きた。敵の来襲までには、まだ数刻あるから、残る軍用金を持って、周山に落ち延びよう」
と、今までの自分に対する忠誠を謝し、城に火を放ち、家老進士作兵衛。他、側近を連れて、山河を越え周山にむかいました。
光春は、兄光秀のたてた密巌寺や、周山城築城の折、協力してくれた周山の住民に、一言感謝を述べたいとの思いにかられていたのです。約二昼夜を経て、周山の密巌寺にたどり着きました。
そこで光春は、持ってきた軍用金を周山城築城に協力してくれた土地の人たちに、お礼として与えると共に、家来にもわけ与え、今後の生活の糧にするようにいって、それぞれの地におちのびさせました。
最後にのこった家老進士作兵衛に、兄光秀愛用の銘刀と莫大な軍用金を渡し、銘刀は周山城天守閣建設予定地に埋めさせ、莫大な軍用金は、後日、明智家再興の時のために、付近の山中に埋め、その地図と目録を持たせ、おちのびさせました。
今はなにも思い残すこともなくなった光春は、密巌寺の境内で自決して果てたといわれています。
光春はまた、密巌寺住職に、明智家先祖代々の霊、及び、戦いで死んだ家来たちを弔うため、多額の永代供養料を寄進しました。住職は、その一部で光秀の木像をつくりましたが、世間の風当たりを避け、像に墨をぬり桔梗の紋も塗りつぶし、役人の目をのがれました。
現在、周山慈眼寺の過去帳には
「明光院殿周峯自宜大居士」
と、光春の戒名が書き残され、黒くぬりつぶされた兄光秀の像と共に、悲運の将の生涯を物語っています。
また、今になって遠くから、地図の写しを手に入れたという人が、周山へ財宝探しにやってきたり、また、土地の人の間には、井崎の志賀田古墳や金屋古墳には、明智の軍用金がかくされているといい伝えられてます。
この本は文化財を守る会さまお預かりして店頭に置いてますので、興味のある方はどうぞ。ほかにも、京北のおはなしがたくさん収録されてます 当店で購入もしていただけます
さて、当店では、埋蔵金にちなんで 百両小判のチョコ最中クッキーを売り出しました
10枚はいって しめて 千両
時には 黒糖くるみ味も店頭にならぶこともあります
ウッデイ京北さんにも おいてあります
また、小判型のアーモンドケーキ
「周山街道でひろった小判」をラインナップしてます
フランス菓子ダックワーズの「亀屋廣清」バージョンです
自家製のアーモンドプラリネを混ぜた、バタークリームサンドしてあります
こころは「猫に小判」 わかる人にわかっていただけるしっかりとアーモンド尽くしです
ただ、最近は 百両小判におされてますので、お気に入りのお客様はご予約くだされば焼きます
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